安藤先生の豪華本の印章を彫ることになったのは東雲という書家です。
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彼は決まりを意識し間接的にその旨忠告もしながらも注文通り丸く篆刻しました。
結果的に先生が大変気に入ったものが出来ました。
規定外は先生の遊び心でしょう。
この時期は模写として雪舟の数mの水墨画なども「お酒が少し入るとよい」
とかで1週間で書き上げられたり、一方で運転免許やモーターボートの免許も
取られるなど、先生のうちには遊び心も湧き上がっていたのでしょう。
その遊び心は北村氏の「愉快な挿画」をさらに変更したことにも表れていたように思います。
時代がどんなに変わっても
変わらないもの自由・夢・美
そして 遊びを求める人間の心
書家東雲の作品にある通です。
正風俳諧連歌の範としてその瓢左氏の兵車行の連歌唱和をも挙げています。
この序文は『唐詩唱和』の序文と同じく文語文です。
当時でさえもはや「このような文語文が書ける人は少ない」とは
この序文からも文人の名にふさわしい博学を感じます。
「姑らくこの雅遊を離れん・・・・他日この業を続けむこと期し難ければ・・・・」
「形而上学完成の素志あれば」とあったのに、当時の私は先生の意思を解さない者でした。
文学の関心皆無で酒の歌も恋愛の歌も先生には「唱和の遊びに淫すること」と
思っていましたのでこれを最後にする旨に喜んだと思います。
歴史を学ぶ意識のない軽薄で愚かな者でした。
先生は「惟ふに昔日余の唱和の遊びに喝采せし知友、すでに黄泉に赴きし者[すく]なからず、希はくは諸子、市井山間を問はず風狂の隠逸ありと聞かば、一本を携えて、余
が為に媒を為すの労を厭ふことなかれ」とその序文を結んでいます。
歴史を踏まえた冷静な批判精神と「あそびごころの詩想」が矛盾なく
しかも「神に入る」境地だった言えるのではないでしょうか。
退職後先生は車で国民宿舎に泊まって四国一周の旅をされ
モーターボートで四国まで行かれたようです。
遊び心もなく酒も歌もわからぬ私を誘ってもう一度国民宿舎を回ってくださいました。歴史のお話を聞かせてもいただきました。
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「瀬戸哀歌」二面島挽歌歌にあるとおりです。瀬戸大橋架橋工事、列島改造の陰で万葉の島がなくなるのを詠われています。
もし存命であればその後の関西国際空港建設でのガット船の活躍も先生の目には万葉の歌人のなげきが映ったのでしょうか。
創造画集を見る時、先生は自然物の造形の背後に、創造の神を見ていたように思います。少なくとも「思惟の思惟」の神様は見えていたことはその歌からも確かです。