唱和訳はリズムと印象をくみ上げるのに対し、
一言半句に厳密な意味の表出を求められる哲学とは、
おのずと一線を画すのではないでしょうか。
要は情感の表現の有無の為でしょう。
この時期、この詩想と情感がつぎつぎ唱和訳書として自費出版されます。
古今東西の自然界の言葉の響きに呼応して、
大和言葉の言霊すなわち詩がまるで泉のように湧き溢れていた様子がうかがえます。
同時に東西で恋愛の歌と酒の歌の比率の違いなども歴史の深い教養から
さりげなく述べられるなど、冷静な歴史の分析と批判が、
どの本の序やあとがきにもあるのが、その特徴でしょう。
一例を挙げます。
「従来の連歌が俳諧連歌となり単に俳諧となったこと、俳諧
にも貞門とか壇林とか流派の変遷があるがそれを最も洗練
され自由な詩型に完成させた松尾芭蕉・・・・。」
「芭蕉と言えば、ただ俳句、つまり発句ばかりを詠んだ人のように思うもの
が多いが、発句というのはもともと俳諧の最初の第一句の意味である。
・・・・俳句には季語・・・が常識になっているが、
季語の必然的であったのは発句に限り、それに続く平句には
季語はなくてもよかった。だから俳諧では
・・・・自然も人事も自由自在に詠みこまれ、
特に恋の句などはなくてならぬもの・・・・。
発句は俳諧一巻を左右する重要な句だから、
最も重要なことは言うまでもないが、芭蕉自身は、
自分は発句よりも俳諧にすぐれて居る、発句なら
自分の弟子にもなかなか名人が居るが、俳諧は自分に及ぶものはない
と公言していたことを忘れてはならない。」
(『葦の葉笛』 まえがき)