哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

REFLECTIONS on GOD,SEL& HUMANITY by TAKATURA  ANDO から ㉛

安藤存在論ノートの結語部分をもう一度ご覧ください。

皆さんはどう考えられますか。私は、哲学者安藤先生の、別書のキリストの十字架の「エリ エリ レマ サバクタニ」に対して「感動てき」と云うことばを発見して先生の哲学的営為もここに終り、真理を追究する生涯の努力は聖書の福音と同じものになったととらえました。

 

無神論者又は懐疑論者の先生の信仰が分かったと思い、そしてブログも少し休めば、その間の消息や後付けも山田晶先生の『中世哲学講義』知泉書館全5巻で簡単にできるように考えていました。

ちょうど私の友人が、西田幾多郎の哲学は我が家の宗教と同じことを言っていると聞いたように、ピラトが真理とは何かとイエスに問うて、答えを待たないで出て行った。

Pilate said,"What is truth?",but without waiting an answer,he went out.(p79)というところは、

ピラトに替わって、安藤先生がイエスから「私が真理である」を聞いたのではないかと、同時に「救いに至る道であり、永遠の命の根源である」と肯かれたのではないかと推察しました。

エスの弟子でデドモと呼ばれたトマスに対して、After having fulfilled his demand, Jesus said to him :Thomas,because thou hast seen me,thou  hast believed;(イエスは彼のねがいをかなえてやった後で言った。「あなたは私を見たので信じたのか。・・・」P78)の哲学の真理はキリスト教の福音に至るのかと思ったわけです。

そうすると、先生の趣味や余技と思っていたマーブリングの創造画集も、「言葉で存在(真理)をとらえる」哲学の延長線上にあり、歌集にある、アリストテレスの神の観照仏陀の悟り

なども信心は勿論、神人の合一の神秘主義に至らないで踏みとどまった、哲学者安藤先生の面目躍如につながると思ったのです。次にそう感じた歌を『唐詩唱和』の白金の手筺から挙げます。

 

思惟の思惟か 涅槃の象(すがた)か内海は ひねもす凪ぎて 光りかがやく

 

色なき色 音なき音を如何にせむ このよき夜をたたふすべなき

 

月ほてり うしほはみちぬ 天つちのまぐはいすらし なびけ夕霧

 

ところがことはそんなに単純ではありませんでした。

1980年の『神の存在証明』公論社の中に、表題の書の訳書で『エピクロスの園』になかった部分が付録として入っていました。

冒頭のマックスに語らせているものからして、先に紹介した、イエスが神の子のキリストとして受肉したことが、ほぼ10年間の中世哲学研究の成果、すなわち神についての変化の証だと私には思はれたのですが、逆に先生自身の文には以下のようにありました。

Max  You know,my friend ,how passionate an admirer of you I was for your aedent campaign againstreligion. I am puzzled to hear you speak of God. What happened to you? I am afraid,thia might be a symptom of old age.p11(マックス ねえ、アーネスト、昔僕が君の宗教批判をどんなに熱烈に支持したか、君はよく知っているはずだ。その君の口から今になって神様の話をきかされようとはね。一体どうしたんだ。ひょっとしたら、これは老衰の徴候じゃないかねえ。

Ernest ・・・・If thought were peculiar to age,it would be a folly of an old man to stick to the thought of youth. But I don't think it is exactly the case ; there may well be an old atheist as well as a young theist. But why do you decide that I am a theist? If one becomes a theist through talking about God,every atheist would turn to be a theist, wouldn't he? (・・・・ところでもしわれわれの思想というものが、それぞれの年齢に固有のものだとしたら、年よりが若いころの思想にしがみつくのは、滑稽なことじゃないか。だけど僕はあながちそのとおりだと言うわけではない。年とった無神論者や、若い有神論者があったって、別に不自然でもなさそうだ。ただ一体何だって君は僕が有神論者になったなどときめつけてしまうのだいもし神さまの話をすることで、ひとが有神論者になるんだったら、無神論者だってやっぱり有神論者になるわけじゃないか。p163)

上記のキリストの弟子トマスについてもIndeed,I doubt whether the print of the nails is really the necessary and sufficient condition of belief in the miracle of resurrection.p85

(まことに「釘あと」が果たしてよみがえりを信ずるため必要十分な条件であろうか)の文が見られたのです。