哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

創造主(The Creator)と安藤先生の「存在論」哲学こぼれ話㉜

安藤先生の前掲書を調べていくうちにそのエピローグで私の疑問は氷解しました。

安藤先生は最後まで哲学という「学問」の立場を貫かれ、ご自分の「信」の立場を哲学には持ち込まれなかったというです。これは後述するジルソン研究の後も変わらないものでした。

「神は存在するかという問に早まった答えを与えないということは保身家の狡猾な遁辞ではなくて哲学者の知恵ではなかろうか」(『神の存在証明』公論社 P162)にあったからです。

 

他にもエピローグの数ページで具体的に学んだことがあります。

「・・・・賢人たちは神があると言い、神の存在が人間その他の存在者を存在させると言った。

つまり神の存在が人間その他の存在の根拠であり理由であるから、神は存在しなければならぬ、即ち神は存在する。」これは創造神(Creator造物主)のことでしょう。

・・・・もちろん神という名がそれほどいやならやめてもよい。いっそ、すべての存在者を存在させるものは存在だと言おうか。

つづく文は前述したように、私が初めて哲学に触れ感動した、髙山要一先生のご講義につながるものです。道元研究者から聞いた聖書の創世記の言葉(ロゴス)とおなじ言葉を見つけたことになります。

「ところでそれこそユダヤキリスト教の神が自分で名乗った名前であった。神がモーセに答えたのは唯『われはある者なり』ということばだった。神の名が存在するものということであったら、その神が存在するのは必然だと考えたものがあったとしても怪しむべきことではなかろう。」と述べた後、安藤先生の存在論アリストテレスの言った存在概念の多義性を完全に枚挙し検討する全哲学史研究の方向に進んだわけです。

それは山田晶先生が安藤先生の遺著の序文にも「古代ギリシアに始まって現代に到る哲学史上の巨人たちの著作を、〔安藤〕先生のように原典で読破した学者が、日本に幾人いるであろうか」(『存在の忘却』行路社 P x)と記されてあるとおりです。

その経緯は『存在の探究』公論社の跋に山田晶先生ご本人の言葉で見ることが出来ます。

 

『神の存在証明』のエピローグに戻ります。

そこではハムレットの名セリフ"To be or not to , that is the question." 「あるか、あらぬか、それが問題だ」が検討されます。先ず私の存在、そして財産、国家の順です。

 

の ある ない これはいったい誰にとって問題だ ろうか。が検討されます。

「それは『私』自身にとってだろうか。だが私はいつでも私である限り在るほかはない。私がないということは私にとっての問題ではありえない。なぜならその時には問題にする当の私はないのだから。」その署名に選んだエピクロスと共通するものです。すなわちエピクロスデモクリトスという無神論の系譜であり、『エピクロスの園』の跋 P135理想社 にこの署名はエピクロスとの精神的血縁からつけたものだとしているからです。安藤先生の無神論の立場はこの出版時期と何ら変わってないように思はれます。

 

財産 これも

「個人的関心に止まる。私が金を持とうと、持つまいと、人にとっては.多分どうでもよいことであろう。債権者と、財産相続人と、盗賊とを除けば」

 

国家が次にあげられます。これは安藤先生の真理探究を妨げた戦争や学生運動の構内封鎖などを踏まえたたものではないかと思われ、私が聞きたかった現在の中東問題の先取りした答えのようにも思われます。

「それでは、われわれ人間にとって、共同的な関心事、われわれにとって、それの在ると在らぬとが、絶対的な問題であるような、そんな存在者があるだろうか。・・・・それは国家であろう。国家のあると、ないとは、単に私にとってばかりでなく、例えば日本人の大部分にとって死活に関る問題だ。但し彼らの多くはそのことに気づいていない。それを知っているのはおそらく2千年間亡国の苦しみをなめつくしたユダヤ人にまさるものはあるまい。