哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

「安藤先生のソクラテス・ブッダ・イエス評」哲学こぼれ話㉚

 

哲学は批判学であることを体現して見せた先生は、晩年アリストテレスとはある面において違う立場をとると言われていた。

もう少し、入院中に書かれた対話編から世界の聖人評を覗いてみます。

ソクラテスに対しても、

‟The only wisdom we can afford is knowledge of our foolishness. But we never cease to be foolish through knowing our foolishness. The evidence is the life of Socrates. It was the utmost folly.” (われわれにゆるされた唯一の知恵はわれわれのおろかさを知ることである。しかしおろかさを知ることによってただちにおろかさをやめるわけではない。その証拠はソクラテスである。彼の生涯は最高の愚かさであった。138)といい

仏陀に対しても、

‟To know the folly of life is to be a nihilist. From the depth of nihility shines the bliss of life. ”(人生のおろかさを知るものはニヒリストとなる。虚無の深淵から生の浄福が輝き出す。139)

We overcome the worries of life through insight into life’s nihility. This was the wisdom of Buddha. In order to be perfectly wise, we must cease to live.”(人生のむなしさを知ることによってわれわれは人生のわずらいを克服する。これが仏陀の知恵であった。完全に賢くあるためには、われわれは生きることをやめるほかはない。140)と批判する。

写真の書のハムレットの結びのエピクロスの言葉に通じるものです。

エスについてもあくまで人間イエにこだわっていることがうかがい知れます。

その14にあるNothing is so moving as his last cry :"Eli,Eli,lama sabachtani"?(彼の最後のことばにもまして感動的なものはない。「神よ、神よ、なぜ私を見すてられるのですか。」この「感動的」と云うことばは文脈から皮肉のようにも感じるからです。

この言葉こそ全人類の救いの根拠だと素直に私がうなずけるのは、先生の「存在論ノート」を見てのことになります。このノートは安藤先生が中世哲学のgilsonジルソン研究を経た10年以後のものです。

Pilate sought for his truth. On that account he asked whence Jesus came. As an honest  citizen, Jesus should have answered: "I am a Nazarene, the son  of Mary and Joseph." That is the truth. That is the proof. Jesus however did not answer. He rejected Aristotle in refusing Pilate. He rejected the fact,or in other words,his fact was quite different  from Pilate's. (ピラトは彼の真理を求めた。だからこそ彼はイエスがどこから来たのかと。まともな市民だったらイエスは答えるべきであった。「ナザレ人、マリアとヨセフの子。」それが真理だ。それがあかしだ。だがイエスは答えなかった。ピラトをこばむことによって、イエスアリストテレスをこばんだのである。彼は事実をこばんだ。あるいは彼の事実はピラトの事実とは全く別のことであった。8)

そしてJesus never spoke about the truth in the way the logical positivists do.(イエス論理実証主義者のような意味で真理とその検証を語ったのではない。12)

「彼の身分証明書はこの世のものではなかった。彼の無実証明はそういう事実の陳述によってあたえられるような性質のものではなかった。」

To suffer his own destiny,to bear burden of his own cross,this was precisely the proof of his truth.(彼が自分の運命を甘受すること、十字架こそ彼の真理のあかしであった。12)

Like every Jew,he too was a historical determinist.(すべてのユダヤ人のごとく、彼は歴史的決定論者であった。12)とあるとおりです。

孔子についてはその引用が「存在論ノート」の冒頭部分と大学院生時代の書『アリストテレースの倫理思想』弘文堂とにあります。