この出版のおかげで、先生は俳諧の現代随一の巨匠に出会うことになります。瓢左という蕉門下の十哲北枝八代の直系の人物です。
安藤先生は続いて原詩付きで『葦の葉笛』というボードレーヌ・ヴェルレーヌ・ゲーテ・ハイネ・キーツなど31名の仏・独・英の詩人の詩77編をいとも簡単に(私にはそう見えました)和歌訳され白雲山房刊として自費出版されました。
いまはその まえがき に驚きます。歴史を踏まえた国文学の文学史の講義のようです。数年前にお会いした96歳の岩井充子氏の「今まで知る限り安藤先生以上に教養のある人を私は知らない」を思い出します。
まえがきを少し見ると、万葉集の長歌、旋頭歌に始まり連歌、俳諧と歴史を踏まえた唱和の説明なのです。司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』の中で高く評価する正岡子規も、松尾芭蕉や九鬼周造を介して歴史的に批判されます。もちろん、高浜虚子や斎藤茂吉の名も出てきます。
会津八一氏の提言は先生と共通するものです。彼の業は九編であきらめ終わったそうですが、自分(安藤先生)はそれを知らずに始め長短千篇になったとあります。
この まえがき は俳句で有名な夏井いつきさんぐらいの人なら納得されるでしょうか。
哲学ノートに戻ります。
➊ 存在esse ipsum は 存在しない nondum est
➊ 存在者 id quod est のみが 存在する est
② 存在 esse ipsum のみが 真実に存在する est
② 存在者 id quod est は それ自体に於ては 存在しない nun est
この対立に於いて共通の前提は esse ipsum の方が
id quod estよりも根源的であり、何らかの意味で階層の高いものと
考えられて居ることである。
なぜならid quod estが真実に存在するか仮幻的にのみ存在するか、
何れにしてもそれの存在することはesse ipsumに関与し、
esse ipsumを分有することによって可能となるからである。
したがってこれに対応してestという述語の価値も変化する。
➊に於て存在すること、estすること、は最も重大なことではない。
しかし②に於てはestはesse ipsumと同じ最高の価値を負うている。
続く