少しずつ記事が増えてきたので、ここでもう一度私の「哲学こぼれ話」の説明をさせていただきます。
まず、小生が安藤孝行先生のもとで哲学を学んでいた際に
その「存在論」の最後の講義に同席ました。
45年も前のことです。
安藤先生のノートについて、もう少し付加えます。
その存在論の最終講義では忘れられないことがありました。
講義の最後に「存在をめぐるの安藤説」を試験問題として、それが終わると先生が最後の晩餐のように、正規登録の受講生11人の学生にグラスを配りワイン(ブドウ液)を注いで回られたのです。12人目の聴講者の私も加えられました。
グラスは記念にいただき後日グラスの写真を玉野の自宅を訪ねてお見せしたところいい写真だと言っていただきました。
今手元にあるノートの最後にはその時の先生の意思があるように思います。
さてのこされた存在者は神である。
神は果して存在者であろうか。
(中略)神は存在したり存在しなかったり出来るような時間的可滅的な存在者ではない。神の存在はその本質に尽される 或は神はその本質が存在を含む如き存在者であり、むしろ神は存在自体であると云うThomasの考が整合的である。但しこのような神はいわばかくれた神であって現れる神ではない。神が現れるとき神は自己を有限化する。
Christ〔キリスト〕はこのように現れた神であり、それ故に彼は死なねばならなかった。彼が死すべきものとして十字架上の死をとげたと云うことは無限者としての神にとっては矛盾である。が無限者としてのかくれた神がそこに止まるかぎり神は人間を救うことが出来ない。神は自己を低くし自己を有限化することによ
って人を救い、人を結びつける仲保者となった。このような神、人間化した神にとっては実在性と実存性が認められうる。しかし神が神自身にとどまるかぎり神は本質と実存の区別を超えた存在自体である。神についてはそれが在ることもあらぬことも出来ると云うことが出来ない。しいて云うならそれは必然的存在者である。それの存在性はすべての自然物、生物、人間存在を存在せしめる最高の原
理、即ち Creator〔創造主〕である。
【存在論ノート P136】
それはとりもなおさず私の理解では福音(もっともよい情報)そのものでクリスマスのことです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)とある通りで、この安藤先生の存在論の最後に驚きを禁じ得ません。私の出会いの導きのパズルが完成につながるような思いがします。
私にとっては、先生の退官前後最晩年の印象は、最初は無神論の近づきがたい印象でしたがその歌を知り変化しました。それは有神論の山田晶先生への出会いにつながります。
いやはての時はおそろししかはあれど
をはりなければまたいかにせむ
いかばかりたのしかるらむ
うとうととゆめみごこちにいのちをはらば
神なくばすべて空しと今ぞ知る
さりとて神を造るすべやある(唐詩唱和 白金の手筺)
安藤先生の略歴については以下を参照。ただ岡山大学定年退官は1977年と記憶します。
安藤先生が退官されてからも、親交があり、のちに、安藤先生の奥様から私が受け取ったのがこちらのブログの背景となっている、写真の岡山大学での最後の講義ノートです。
こちらのノートを転記しながら(哲学ノート)
当時の私の体験を回想し、この「哲学こぼれ話」を綴っています。
「哲学ノート」をお読みいただければ、
安藤孝行先生の最後の講義に疑似出席しているような追体験をしていただけるのではないか、私も哲学をかじった一人の人間として、今の時代のテクノロジーを利用して、より多くの方にその講義の内容を受け渡していくことができればと考えます。
今後も哲学こぼれ話をお読みいただけると幸いです。
続く