哲学こぼれ話ですから、中略した存在論の部分をまず挙げておきます。
さてのこされた存在者は神である。神は果して存在者であろうか
トーマス(Thomas)に於て神は存在esse ipsumであって ensではなかった。しかしThomas の後従者をも含めて人間は神を単なる esse ipsumに止まらず ens perfectissimumとしてとらえようとした。そしてたえず神の実在を問題とした。その際esse とexistentiaの区別は無視された。しかし existentiaはげんみつに云えば被造物、即ち有限的存在者に付加わる accidensとしての実在性であった。そのいみでは resのみならず personaとしての実存も亦 existentiaを有する。Kierkegaardの Existenzと Existierendesはともに existentialの形態である。これを神にまで拡大することが果して許されるであろうか。神は存在したり存在しなかったり出来るような時間的可滅的な存在者ではない。・・・・
安藤先生の写真の英文著書(reflections on God, Self & humanity & humanity)について
この自著の訳本が『エピクロスの園』です。
そして下記の写真の通りにエピクロス自身の言葉を挙げて対話を締めくくっています。(ただしこの英訳だけは R.D.Hicksです。安藤先生は文語訳です)
この書名は「精神的血縁の標示以上の何ものでもない」と跋にあります。
同時に安藤先生は「私としてはこれでここ数年間に完成しようとする自分の形而上学のライトモティーフをとらええたように思う。」と述べられます。
エピクロスは「死は、善悪を感じる感覚をすべてなくしたわれわれにとって恐れるに足りない。・・・・死はわれわれにとって何ものでもない。われわれが生きている(ある)時、死は来ることはなく、死がやって来る時、われわれはもう既にいないから。」と言っています。
エピクロスはデモクリトスの唯物論を学んだ無神論者であったわけです。
続く