英・独・仏・そしてギリシャ語でそれが出来たのが安藤孝行(白雲山人)先生でした。
前述の書『唐詩唱和』です。
私はそれに対して「難しい」と感想したために、
先生は私にもわかるようにと、唱和と和歌・俳句を含む啓蒙的な
『唱和の遊び』桜風社を自費出版されました。
先生の貴重な時間も奪ってしまいました。
当時私は先生には哲学に専念してほしいと思っていました。
この結果に負い目も感じていました。
と、後者の英文の著書も見せられ高名を聞かされていたからです。
それが髙山要一先生です。
先生のことは少しあとで書きます。
私は100以上にセールスしたと思います。
そのお陰で懐かしい母校に恩師を訪ねたり幼馴染にも会うことが出来ました。
父や兄の助けも借り、その紹介者がほとんど唐詩唱和のほうを
求められたのには驚きました。
姫路市の図書館長も喜んでくださいました。
熊本の開業医の方は早稲田の国文科を出た人のお父様で
先生の唱和のよき理解者になられました。
日本には市井に詩人が多くいると実感しました。
哲学ノートに戻ります。
このようにみると上述のBoethiusの命題はsse存在とid quod est存在者を区別し、存在者は存在に関与することによって存在するようになるが、存在そのものは、何にも関与しないのでえestする、存在するとは言えないという意味に解される。
このように純粋存在が存在せず、存在するのは純粋存在に関与する有限的な実体としての存在者であるということは一見すると逆説的に聞こえるかもしれない。
それは純粋存在こそ本当に存在し、それを分有する有限的存在者は偽りの存在者であるか少なくも一時的仮幻的な存在性しかもたないという考え方に対立する。
そして後に述べたのは普通PlatonのIdea論の趣旨であると考えられるものであ
る。このAntinomieをとくためにはさらに存在esse自体ipsumと、est、id quod est等の意味を分析する必要があろう。
続く