哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

「安藤先生とニーチェ」 哲学こぼれ話㉘

安藤先生とニーチェです

哲学は批判学であることを貫かれた先生です。この本ではニーチェ批判も散見されます。旧制第八高等学校時代には「校友会誌にニーチェ論なんてものばかりかいて」いて友人間ではニーチェの信奉者と思われていたふしがあります。『当世畸人伝』白崎秀雄 新潮社版P69(城野 宏)他

しかし、安藤先生はニーチェを無批判に受け入れていたわけではなくこの時には超えていたと思われるものも見られます。そのニーチェ批判を挙げます。

“WHAT IS TRUTH” 56

Well,then,is there no need of making God nowadays?  I very much doubt it.

Nietzsche proclaimed the death of God.  Still,to say,as he did,that man is not an end,but a bridge over whichwe must pass;what would it ,if it were not an acknowledgement that man cannot be God afterall.  Nietzsche shrewdly made the Superman steal in by the back door while driving Got out of the front.(それでは人間は今では神を作る必要がなくなったのだろうか。それははなはだ疑わしい。ニーチェは神の死を宣言する。しかし人間が目標ではなくてこえらるべき橋であるということは、人間が遂に神たりえないということの承認にほかならない。ニーチェは表門から神を追い出しておきながら、裏門からひそかに超人を忍び込ませた。)

48  Nietzsche was right in noticing that eternity is a false life-concert.  But the value of life was not the more justified by hia discovery. (永生がいつわりの生命概念であることを看破したのはニーチェの炯眼であった。しかしそのことによって生命そのものの価値が正当化されたわけではない。)

49 Eternal recurrence―An astonishing thing in the nineteenth century,that such a childish illusion not only flashed in a philosopher’s brain,but was proudly proclaimed in real earnest; just as Auschwitz was the shame of the twentieth century.  Did Nietzsche really want to prove thereby that human reason had made no progress since the  day s of Heraclitus and the Stoics?(永劫回帰―このようなたわいもない妄想が一人の哲学者の脳裡をかすめただけでなく、臆面もなく創見として説かれたということは十九世紀の驚異である。ちょうどアウシュヴィッツが二十世紀の恥辱であったように、ニーチェはそれによって人間の知恵がヘラクレイトスやストアの時代以来何の進歩もしなかったということを実証するつもりだったのだろうか。)

 133 Every purpose originates from life,But the philosopher of life committed a fault in deeming life an end in itself.  It is the nature of life to serve an end other than itself.  “For what account ought we to live?”is not a false question.  It talk to us of the instinct for life,whuch devotes itself to some end.Whennever it lacks an end to serve,it will serve even matter.  Life for life’s sake means mere ennui.(すべての目的は生命に帰因する。しかしそこから生命を自己目的として聖化しようとしたのは生の哲学の誤謬であった。自己以外の目的に奉仕するのが生命の本性である。「何のために生きるか」という問いは人間の錯覚ではない。それは生命の自己犠牲の本能を物語る声である。奉仕すべきイデアをもたない時には生命はせめて物質にでも奉仕しようとする。「生命のための生命」の意味するものは倦怠そのものである。)

But he who had once seen the relation between life and its end cannot return to innocent idealism.  He cannot overlook the nihility of the end.  What is left for him.  Is only seeking an end as as port.(しかし一たび生命と目的のこの関係を洞察した者はもはや再び無邪気な観念論にかえることが出来ない。かれは目的の虚無性に目をとざすことが出来ない。この時彼にのこされるのはただ遊戯としての目的活動だけである)

「英文の対話編に見られる存在論」哲学こぼれ話㉗

私としては前述の驚きの結論とそこに至る過程を探っています。

このノートの講義をさかのぼること12年前の昭和40年に、安藤先生は京都第二日赤に入院中に英語で対話編Hamlet,“TO BE OR NOT TO BE”(「ハムレット あるか あらぬか」)を書かれました。

これを翌年6月に北海道大学日本哲学会で発表。9月にはこれに「ピラト 真理とは何か」を含む日本語訳の『エピクロスの園』が理想社から刊行されます。この書のハムレットに関していえば英文が先で日本語が後になります。但し出版は前後逆です。

前回の写真reflections on God, Self & humanityは、岡山大学に移られて一年後の1968年(昭和43年)に自費出版したものです。そこにはERNEST,or ON GOD   HAMLET,or“TO BE OR NOT TO BE”   PILATE,or“WHAT IS TRUTH”が含まれます。その「ハムレット」のなかでは、

Hamlet  Are you of the opinion that only temporal or spatial things exist and that so-called eternal being does not exist?(「君はただ時間的または空間的なものだけが存在して、いわゆる永遠的存在者というようなものは存在しないという考えなのかね。」)

Horatio  Yes,that is my opinion.(「そのとおりです。それが私の考えです。」)

Hamlet  I am afraid that it will lead to atheism,for God is without doubt considered to be an eternal being.(「それは無神論になりそうだね。なぜって、神は疑いもなく永遠的存在者だと考えられるからね。」)

との叙述が見られます。

 

少し違った角度から、思い出を書きます。それは

 

 

「安藤孝行先生の英文著作について」哲学こぼれ話㉖

 

哲学こぼれ話ですから、中略した存在論の部分をまず挙げておきます。

 

さてのこされた存在者は神である。神は果して存在者であろうか

 

トーマス(Thomas)に於て神は存在esse  ipsumであって ensではなかった。しかしThomas の後従者をも含めて人間は神を単なる esse ipsumに止まらず ens perfectissimumとしてとらえようとした。そしてたえず神の実在を問題とした。その際esse とexistentiaの区別は無視された。しかし existentiaはげんみつに云えば被造物、即ち有限的存在者に付加わる accidensとしての実在性であった。そのいみでは resのみならず personaとしての実存も亦 existentiaを有する。Kierkegaardの Existenzと Existierendesはともに existentialの形態である。これを神にまで拡大することが果して許されるであろうか。神は存在したり存在しなかったり出来るような時間的可滅的な存在者ではない。・・・・

 

安藤先生の写真の英文著書(reflections on God, Self & humanity & humanity)について

God,Self & Humanity

 

 

この自著の訳本が『エピクロスの園』です。

 

エピクロスの園

 

そして下記の写真の通りにエピクロス自身の言葉を挙げて対話を締めくくっています。(ただしこの英訳だけは R.D.Hicksです。安藤先生は文語訳です)

この書名は「精神的血縁の標示以上の何ものでもない」と跋にあります。

同時に安藤先生は「私としてはこれでここ数年間に完成しようとする自分の形而上学のライトモティーフをとらええたように思う。」と述べられます。

エピクロスは「死は、善悪を感じる感覚をすべてなくしたわれわれにとって恐れるに足りない。・・・・死はわれわれにとって何ものでもない。われわれが生きている(ある)時、死は来ることはなく、死がやって来る時、われわれはもう既にいないから。」と言っています。

 

死について エピクロス

エピクロスデモクリトス唯物論を学んだ無神論者であったわけです。

 

続く

 

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「安藤孝行先生の最後の講義ノートについて」哲学こぼれ話㉕

少しずつ記事が増えてきたので、ここでもう一度私の「哲学こぼれ話」の説明をさせていただきます。

 

まず、小生が安藤孝行先生のもとで哲学を学んでいた際に

その存在論」の最後の講義に同席ました

 

45年も前のことです。

 

安藤先生のノートについて、もう少し付加えます。


その存在論の最終講義では忘れられないことがありました。

 

講義の最後に「存在をめぐるの安藤説」を試験問題として、それが終わると先生が最後の晩餐のように、正規登録の受講生11人の学生にグラスを配りワイン(ブドウ液)を注いで回られたのです。12人目の聴講者の私も加えられました。

 

グラスは記念にいただき後日グラスの写真を玉野の自宅を訪ねてお見せしたところいい写真だと言っていただきました。


今手元にあるノートの最後にはその時の先生の意思があるように思います。

 

さてのこされた存在者は神である。

神は果して存在者であろうか。

 

(中略)神は存在したり存在しなかったり出来るような時間的可滅的な存在者ではない。神の存在はその本質に尽される 或は神はその本質が存在を含む如き存在者であり、むしろ神は存在自体であると云うThomasの考が整合的である。但しこのような神はいわばかくれた神であって現れる神ではない。神が現れるとき神は自己を有限化する。

 

Christ〔キリスト〕はこのように現れた神であり、それ故に彼は死なねばならなかった。彼が死すべきものとして十字架上の死をとげたと云うことは無限者としての神にとっては矛盾である。が無限者としてのかくれた神がそこに止まるかぎり神は人間を救うことが出来ない。神は自己を低くし自己を有限化することによ
って人を救い、人を結びつける仲保者となった。このような神、人間化した神にとっては実在性と実存性が認められうる。しかし神が神自身にとどまるかぎり神は本質と実存の区別を超えた存在自体である。神についてはそれが在ることもあらぬことも出来ると云うことが出来ない。しいて云うならそれは必然的存在者である。それの存在性はすべての自然物、生物、人間存在を存在せしめる最高の原
理、即ち Creator〔創造主〕である。

 

存在論ノート P136】

 

それはとりもなおさず私の理解では福音(もっともよい情報)そのものでクリスマスのことです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)とある通りで、この安藤先生の存在論の最後に驚きを禁じ得ません。私の出会いの導きのパズルが完成につながるような思いがします。

私にとっては、先生の退官前後最晩年の印象は、最初は無神論の近づきがたい印象でしたがその歌を知り変化しました。それは有神論の山田晶先生への出会いにつながります。

いやはての時はおそろししかはあれど

をはりなければまたいかにせむ

 

いかばかりたのしかるらむ

うとうととゆめみごこちにいのちをはらば

 

神なくばすべて空しと今ぞ知る

さりとて神を造るすべやある唐詩唱和 白金の手筺)

 

 

 

安藤先生の略歴については以下を参照。ただ岡山大学定年退官は1977年と記憶します。

 

Wikipediaより略歴

 

 

安藤先生が退官されてからも、親交があり、のちに、安藤先生の奥様から私が受け取ったのがこちらのブログの背景となっている、写真の岡山大学での最後の講義ノートです。

 

こちらのノートを転記しながら(哲学ノート)

当時の私の体験を回想し、この「哲学こぼれ話」を綴っています。

 

「哲学ノート」をお読みいただければ、

安藤孝行先生の最後の講義に疑似出席しているような追体験をしていただけるのではないか、私も哲学をかじった一人の人間として、今の時代のテクノロジーを利用して、より多くの方にその講義の内容を受け渡していくことができればと考えます。

 

今後も哲学こぼれ話をお読みいただけると幸いです。

岡山大学での安藤孝行先生の最後の講義ノート

Wikipediaより、主な著作

 

 

 

 

 

tetsukobo.hateblo.jp

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続く

 

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「哲学も唯物論から入れば、それはそれで簡単には否定できないものだ」哲学こぼれ話㉔

 

学生時代にさかのぼり受けた教えを少し披露いたします。

 

先に名前を挙げた新カント派の授業を受けた杉村暢一先生からは

「哲学も唯物論から入れば、それはそれで簡単には否定できないものだ」

と言われました。

 

「論理的判断は捨象であるが取り上げた判断そのものは否定できない」という服部先生の言われたことにつながります。

 

最も学恩ある金森利一郎先生からは「一人の人物アリストテレスならアリストテレスについて徹底して来る日も来る日も読み続ければ、それが20年~30年続ければ公にできる何かが生まれる」ものだとお聞きしました。

 

先生自身は、その社会思想史の授業の中で、『形而上学』をも毎年新たに鉄筆で原紙に書き換え謄写版印刷されていました。「訳本でよいから形而上学も読める、よめばわかってくる」とお聞きした記憶があります。

 

 

 

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「誰も一生かかっても、否何度生まれなおしても卒業できるようなものではない」哲学こぼれ話㉓

 

挿話の余話。

 

話を先取りしますが、先生の遺稿の中に、田辺元先生とのやり取りやソ連(ロシア)が交渉もできない相手であるなど短いエピソードがあったのですが、私は割愛しました。

 

そのことを今深く反省しています。

 

田辺先生については、先生とのやり取りの手紙もたくさんあったのに、田辺元全集の編集者から何の連絡もないままだと聞いていました。そして先生はご自分の全集を出すことを強く願っておられました。蔵書全部を寄付するから、全集を出してくれる大学はないだろうかと言ってもおられました。


 私の口語訳とは別にやがて先生が望んでいたような形の本が『アリストテレスの倫理思想』として岩波書店から出たので、私自身の言葉でまとめたアリストテレスの論文(内容的には『アリストテレス倫理学』に新しいものを何も加味していない)をこの著者である岩田靖夫先生や存命中の恩師がたにお送りし見ていただきました。

 


 

岩田先生から丁寧なコメントをいただき、その後学会でもご挨拶し生前ずっと年賀状もいただきました。服部先生からは池田康夫先生にも紹介いただきました。

 

池田先生に「アリストテレス倫理学をまだ卒業できずにいます」と言ったら、お手紙で「誰も一生かかっても、否何度生まれなおしても卒業できるようなものではない」と注意されたことがあります。

 

何千年に一人の大天才が、この時のギリシャに続いたのですが、無知でした。

 

以後学会で若い研究者が、ひと言か二言で、プラトンアリストテレスの否定をするのを聞くとそのあとの発表は聴く必要がないと思いました。

 

この池田先生には文通だけでお目に掛かれませんでした。

 

池田先生から「山田晶先生の本を読破するのに水に足をつけながらやっている」とお聞きしたことがありました。安藤先生の『アリストテレス研究 認識と実践』も読んでいただくべきでした。

 

続く

 

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「人生は師を求める旅」哲学こぼれ話㉒

 

金沢には西田先生を神様扱い(偶像化)しているものが多くいて批判が許されないで困った。軍国主義者以上に厄介な存在だったということも聞きました。


哲学が批判学であることを厳密に実践した安藤先生には耐えがたいことであったと思います。西田先生の名前だけに酔っている学生に、哲学を教える苦労を察します。

 

しかし私は先生の批判の対象であった厄介な人の代表であると自身を思います。

 

およそ哲学の批判学という性格を欠いた、権威主義的人間だと思っています。ただ一言弁解すれば「人生は師を求める旅」で最も信頼に足る師、全的師事に足る人、人格においても研究においても立派な人はだれかそうした出会いを求めて、それに恵まれたことで結果的に権威主義的なものになったと思っています。政治的関心も強いと言われた安藤先生から「天国的楽観論?」とも言われたものですが・・・・。

 


 

しかし先生はそんな私に、自分が退官したら一緒に洋書と稀覯本の専門店を始めようと言ってくださったのです。

 

続く

 

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