哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

「赤ちゃんは世界のどの言語にも対応できて、 どの民族もお互いコミュニケーションできる。」哲学こぼれ話⑩

 

 

 

話は変わります。

『天才』という言葉から思い描くものは各人各様違いも大きいと思います。

哲学を離れて一般常識によれば、自分と他人が違うといったことは反省的に

自己意識を持つようになれば誰しも経験的に知ることです。

 

 

しかし人類の4大聖人の一人お釈迦さまは私が私と意識すること。

それさえ否定したのですから大天才です。

 

同様にその哲理を解き明かし、そこに竿頭一尺予定調和を述べたライプニッツも千年に一度出現の天才なのでしょう。

 

加えて各自は各自の偏見の窓からしか世界に触れられないといったF・ベーコンは間違いなく天才でしょう。

 

しかし私の天才の定義はもっと身近です。

何百億人とか何千年の単位で出現する人物だけではありません。

 

進藤隆夫氏の研究を参考に、時代の文化に影響を与えうる人で、

その対象は人間活動のすべての分野・能力について言えるものです。

 

天才とは、物事の自己にとっての優先順位を選択する生得的センスを持ち、

行動においては並外れた意志の人であり、その揺るがぬ継続にあって

習性的自己を確立できる人。換言すれば天職意識を持ちそれに精進する人格を指します。

 

「人間の能力の総量は同じ」(髙山先生)。

才能をどこかに集中できるかどうか。

誰もが潜在能力として持っているが何らかの理由で発現が阻害される場合、

天才になれないと考えます。

 


先日打楽器の演奏会に行きました。

そこで見聞したその超絶技巧に「天才だ」と思いました。

その作曲が出来る人も、またオーケストラを指揮できる人も同様です。

将棋の世界も、スポーツの世界でも、

あらゆる物作りや表現の世界でも同様に考えます。

 

 

AIの出現は哲学者たちにどのような示唆を与えるのか

 

動植物の種類にそれぞれ優劣がないように、

人の能力の種類に価値的な上下などはない。(安藤先生の後述の言葉と矛盾しません)


耳で聞いて言葉を習得する能力を見ればよくわかります。

赤ちゃんは世界のどの言語にも対応できて、

どの民族もお互いコミュニケーションできる。

 

高性能のパソコンが各自に与えられているということでしょう。

書き言葉ではなく話せる(手話を含め)ということです。

まずは天から賦与された才能という視点が大切だと思います。


読み書きは別次元の問題だと思います。

小学校の先生の教育の成果に始まります。

 

私のあやふやな記憶ですが、70年前にはその機会がなく

手紙が読めない人がいました。一方で、旧制高校生などは

ドイツ語まで読めたわけです。


さしあたって学力に限って言うなら

市内の同学年中で競って一番になる人、飛び級するような人、

ただし「二十歳すぎ」てもただの人にならなかった人です。

 

私の中では大学の恩師方は皆それにあたります。

普段学問を究めようとする先生方から天才云々という言葉は聞きませんが、

そうしたなか経済学部の教授のお一人から

「安藤さんは天才肌」

という言葉を聴きました。


ちなみに進藤氏の『天才の秘密』には「らんまん」の主人公である

牧野富太郎博士の写真が冒頭の天才36人の中にありました。

『世界が称賛!「すごい日本人」』(三笠書房)にあげられた全員が

天才だと思います。

 

天才文人の話に戻しましょう。

 

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