哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」哲学こぼれ話①

 

 

ひとり言はその人だけのもの。

 

けれどここに私の「忘れ得ぬ人々」を

紹介したいと思います。

 

哲学風ブログを始めるのは

 

私の個人的な経験が、私以外のだれかに役立つかもしれないし

またはひょっとしたら一般的に役立つものがあるかもしれないと思ったからです。

 

主としてそれは

私の経験したこと、

私が発見したこと、

私の思い至ったことの紹介に尽きるので、

「経験に学ぶ愚者の」自分史なるかもしれません。

 

記憶違いなど個々の内容の確かめは皆さん自身におまかせします。

それとは別に、哲学という学問の中の恩師方のノートを紹介したいと思います。

 

ちなみにある哲学会での師と山田 晶氏との存在に関する真剣な質疑応答の印象を稲垣良典氏も驚きの目をもって自著に書いています。

 

安藤孝行先生の直筆のノート




Ontology


存在の問題
・序論
・問題の設定


 すべての問は、それについて問われる何ものかを前提にして居る。(id quod inquiritur)

 

 その前提なしにはわれわれは問い出すべき動機をもたない。

その対象が前提されている限り、われわれはそれについてなんらかのりょうかいをもっている。しかしその了解は差当り予備的なものとして不十分であり未分節である。

 

 問はこの了解の完成と分節への要求である。

このことは哲学のみならず諸の科学乃至科学以前の問についても妥当する。

 

 例えば物理学が物体を構成している究極的要素を探求する時、物理学者は物体、構成、要素についての知識を前提して居る。

 

 経済学者がinflationの原因を問うとき、彼等はinflationという現象と原因という概念についての知識を予想但して居る。

 

 但し科学者の場合には探求は一定の境界をこえない。物理学者は物体についてはある程度分析を進めるかも知れないが、構成とか、要素という概念にまではその分析を進めない。経済学者はinflationの諸現象を精密に記述し分類するかもしれないが、原因の概念は自明のこととして前提されたままに止まる。


この残された自明の問題が哲学の本来の課題となる。

 

 哲学は物体、原因、現象、構成などの諸概念を分析し明確にすることを課題とする。このような究極的な概念の探求は果たして可能であるかという懸念は理由のないことではない。

 

 それは無限遡及(regressus in infinitum)か悪循環(circulus viciosus)に終わるのではなかろうか。概念の究明は定義によって進められるが、定義は類に種差を加えることによる種の限定であり、それは最高の類としての範疇、最低の種としてのinfima speciesに終るとすれば、範疇や最低種についてはそれぞれ分析不可能なもの、自明の所与的体験として前提されなければならないように思われる。

 

 しかしもしそうであるとしても少なくも若干の基礎概念相互の間に秩序を立て、その関係を明らかにすること、またたとえ循環をまぬがれないにしてもその循環そのものを秩序立てることは効果のない仕事ではない。

 

 なぜなら日常的経験や科学において十分に秩序立てられないままで使われている諸概念は多くの混乱をひきおこし、経験や科学の作用を妨害するからである。

 

 

そのようないみで哲学はこれらの日常的科学的知識の整理役をつとめるであろう。

 

続く