哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

「我々人間に真理など到底知ることはできない、ただ自然界の現象からそこにある法則を見つけるのがせいぜいのところだ。」哲学こぼれ話⑤

 

ある時の服部先生の質問に、ある学生が「真理を学ぶ」ためにと答えたところ、先
生からは「我々人間に真理など到底知ることはできない、ただ自然界の現象からそこにある法則を見つけるのがせいぜいのところだ。」といった答えを聴いた記憶があります。


今思えば、認識論の模写説とカントの不可知論すなわち構成説の説明だったと思います。先生は何事も正直で神秘主義が一番難しい、わからないところがあると、またその関連かサンスクリット語は不勉強で読めないとも話されていました。『キリスト教の合理性』を訳された頃のことでしょうか。

 

これも岩波が持ち帰って〔刊行して〕くれれば良かったがと当時言われていました。(今日、岩波文庫に発見しました。先生の存命中でなくてよかったと思いました)


先生は、美学概論も担当され、ご自分で絵も描かれていました。真善美。美も哲学の対象であることを知りました。また学者とは少なくも二つの外国語を修得した人たちだと哲学科の授業で納得させられました。


白雲山人(安藤孝行)先生に出会う数年前のことになります。

 

哲学ノートに戻ります。

 

 この文の解釈にも種々問題があって、まずesseとid quod est の区別されていることはたしかであるが、esseなりid quod estがそれぞれ何を意味するかは必ずしも明らかでない。

 

Brosch は(Der Begriff bei Boethius) Boethiusに於てesseDaseinでなくSosein を現すと言うが、それから区別されたid quod estを直ちにDaseinとはみとめない、むしろそれは本質であるesseそのものを分有する有限的存在者とみる。次にipsum esseと云われるのは上にesseと云われたものを単独純粋にとり出したもの即ち純粋形相として存在そのものであるが、それについてipsum enim esse nondum estとはどういうことか。

 

英訳ではForsimple being awaits manifestationとなっているがこれは余り神学的な表現であって直訳すればipsum esse即ち存在そのものはnondum est未だ存在しないとなる。

 

この未だということを解釈してやがて被造物に現れ出るのを待っているという意味で awaits manifestationとしたのであろう。

 

しかしいずれにしてもsimple beingあるいはesse ipsumについては 

それがある、estと云うことが出来ないで、それについてそれがあるestと云うことの出来るのはむしろessendi forma 即ちbeingの形相を受けとって始めて存在するところの(id)quod est即ち有限的(被造的)存在者、諸実体であると云うことになる。

 

そしてこのessendi formaとはesse ipsumに他ならない。

 

続く