哲学こぼれ話

哲学について、思うことをつらつらと…

「存在者オンと存在するエイナイの区別」哲学こぼれ話④

 

森先生に出会う前に私は初めての哲学書講読の授業でカントの「純粋理性批判」「実践理性批判」のドイツ語を、まるで日本語を読むように、日本語と同じスピードで訳す先
生に出会いました。

 

服部先生と畠中先生です。私のこの時の衝撃は大きかったです。

内容的にはカントはわからないということが分かっただけでした。

畠中先生は大教室での授業の時の印象では、大海原の怒涛に対峙しても、平静そのものの釣り人の姿でしたが、数人の講読の時も同様でした。


服部知文先生は英語のロックの「人間悟性論」の演習では、

私の訳に「質問の前に君は自分の訳した日本語の意味が分かっているのか」と言われたことがあります。「寝言は寝て云え」と言われるのと50歩100歩でしょう。

 

英文専攻の先輩に頼んで訳してもらって臨んでもこんな有様でした。
一般論でいって言語は古いものほど複雑で精密であったと思います。
その英文も流れるように完ぺきな日本語に訳されていました。

 

その訳は先生の岩波文庫のロックの「教育に関する考察」の訳文から想像いただけるでしょう。

 

哲学ノートに戻ります。

 

すなわちわれわれが 

ここで出会った問題は第一に存在者オンと存在するエイナイの区別。

 

第二に存在者にならって、非存在者メーオン概念を作った場合 

それが何を意味しうるかということである。


さて存在者と存在の区別について、

たしかにオンとエイナイという別々の語がある以上そこになんらかの区別が認められていたと言えないことはない。その限りに於てそれはすでにParmenidesにも認められる。しかしその二つの語の意味内容も両者の区別もParmenidesはもちろん、PlatonAristotelesと雖も明確にすることが出来なかった。

 

その区別が漸くあらわになって来たのはBoethiusではなかろうか。

 

Boethius(480AD―524)はQuomodo substantiae in eo quod sint bonae sint cum non sint
substantiali bona(如何にして諸実体は実体的に善ではないのにそれのあるところのものに於て善であるか)という論文の中で次のように述べる。

 

28-30:Diversum est esse et id quod est ;ipsum enim esse nondum est,at vero quod est
accepta essendi forma est atque consistit.(esse存在と存在するところのものとは異なっている。なぜならesse存在は未だ存在しない、だがしかしあるところのものはessendi formaあることの形相をを受け取ると、存在し、また存立する)

 

存在論ノートより



 

 

続く