季節の変わり目、黄砂か花粉か珍しく咳が出たりで、
ブログ小休止していました。
先生の紹介を続けます。
〈文人〉という言葉をご存じですか。
スポーツ万能に比べて文章(ことば)万能の人と言ったらいいでしょうか。
日本は長い歴史の中で、自然の美と自然の奏でる響きを大切に
見聞した人が多くなった国ではないでしょうか。
それを言葉にしさらに凝縮したのが
短歌であり俳句・川柳だと思います。
音楽は世界中にありますが
それが言葉として、毎週新聞に歌壇・俳壇として掲載される国は
日本以外にはないと聞きました。
日本が詩人の国と言われるわけです。
教育実習(倫理)でお世話になり、その後94歳で亡くなられるまで
指導してくださった森直行先生も
西田幾多郎を研究する厳密な論理の方でしたが、
お便りには必ず俳句を添えられていました。
白雲山人「唐詩唱和」が難しいと言ったために、
先生には唱和と和歌・俳句を含む詩論「唱和の遊び」桜風社も
自費出版させることになり時間も奪ってしまいました。
この時は校正させていただきましたが、
当時は先生には哲学の完成のために専念してほしいと思っていました。
哲学ノートに戻ります。
しかしそこから新しい問題がおこって来る。
なるほどわれわれはある存在者についてのみ
それが存在するとか、何々であると言うことが出来、
存在しないもの、非存在者ついては せいぜいそれが存在しない。
それは非存在者であると云うこと以外の何ごとも正しく言うことは出来ないかも知れない。
しかしあるものが存在するとしても、存在者と、存在することとは果たして直ちに同一であろうか
もしそうなら存在者は存在するという面台さえ
果たして成立しうるであろうか
われわれは真偽はともかく形式的には存在者は存在するという命題を作ることも出来るし、存在者は存在しないと云う命題を作ることも出来る。
もちろん前者は正しく後者は誤りであろう。
しかし前者が正しく、後者が誤りであるということは
少くとも二つの命題が一応有意味であることを前提しなければならない。
さらに非存在者を主語とする命題を作ってみる。
非存在者は存在するという命題は偽りであり
非存在者は存在しないという命題は真であるとすれば、
確かに非存在者も命題の主語となりうるわけであり、
非存在者は存在しないという命題が真であるとしたら
非存在者はその限りに於て認識されたと言うことが出来るのではなかろうか。
続く